G: きらびやかで華やかなパーティのようなアルバムが溢れる世界の中にも、静かで孤独で内省的な音楽はあるんだ、ということかな。このアルバムは一種のセルフィ(自撮り)、つまり、鏡の中を覗いて「これが自分なんだ」と思う感じさ。良い面も悪い面も醜い面も含めて全部ね。ライトが消えて、カメラが止まった時に浮かび上がってくるもの、そんな曲ばかりだよ。たとえば「Triumph」は自分の子供たちに本音で語るとしたら、何を語るか。彼らが耳を傾けるべきは何か。「To The End of the Earth」から「Alone Together」へ続く流れは、愛は最初おとぎ話のハネムーン期みたいだけど、炎みたいなもので、ちゃんと手をかけていないといつか消えてしまう、というようなね。アルバムを通しては、リアルで生々しいブルース・アルバムだと言っていいよ。現代のテクノロジーを使いつつも、やってることはローダウン・ブルースなんだ。
G: バズ・ラーマン監督から連絡があったんだ。物語の語り方というだけでなく、ビジュアル面も含め、素晴らしい作品だった。当然、アーサー・ビッグボーイ・クルーダップ役で声がかかり、嬉しかったよ。エルヴィスが歌って有名にした「That’s All Right」の作者だ。エルヴィスが彼の解釈で歌い、大ヒットさせた。バズがあの曲を映画に入れたことは本当に重要だと思ったし、彼がそのルーツをしっかりと伝えてくれたことに心から称賛を送りたいよ。昔の音楽業界では、こういう人たちに対する正当な評価はずっとされないままだった。ブルース・アーティストやソングライターたちの書いた曲が、ある日突然、スターによってカヴァーされ、大ヒットした。でも、作者や元のアーティストの存在は誰も知らないままのことが多かった。契約的にも金銭的にも、不公平な扱いを受けて終わってきたんだ。だから、そんなシーンで出られたのはとても良かったよ。撮影はオーストラリアだったが、ビール・ストリートやメンフィスの街並みのセットが再現されたんだ。俳優たちも実はアメリカ人は少なくて、アフリカ人やオーストラリア人が多かった。演じている時は、メンフィスや南部の訛りや方言で話すのに、カットがかかると、みんなまるで違うアクセントで話すんだよ。本物の南部出身のアメリカ人であるぼくが見ても、オーストラリアでメンフィスが完全再現されているのは、いかに製作陣や俳優たちが、プロの仕事をしているのかがわかる面白い体験だった。映画の中における音楽の扱われ方もとても良かったと思うよ。そして何より、エルヴィスを演じたオースティン・バトラーが素晴らしかった。会う前から「オースティンは今、オースティンじゃない。エルヴィスだ」と言われてたんで、彼に会う時は「キング」と呼ぶようにしていた。「キング、調子はどう?」と。一度もオースティンと呼んだことはなかったよ。だから、こちらもカメラが回る前から、ゲイリー・クラークとしてではなく、アーサー・ビッグボーイ・クルーダップとして役に入り込めたんだ。彼といる時は今の時代の話は一切せず、ただ音楽の話、古いブルース・プレイヤーたちの話、そして彼の衣装について話した。あれは滅多にできない素晴らしい経験だったよ。